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2021年8月

2021.08.19

裏道と女神とひとりで輝くことについて

 

私に裏道を教えてくれた女神がいる。私の女神。ある日とつぜんあらわれて、ある日とつぜんどこかへ行ってしまった。

私はそれまで、大きな道を歩くことしか知らなかったので、すり抜けるように裏道を歩く女神の小さな背中について行くのに精一杯だった。

女神はどこか不規則なリズムで、早足に歩いた。

 

私には、裏道を歩くこと自体が衝撃だった。じぶんがどこを歩いているのか、どこに向かっているのか、わからない。とにかく、女神の背中を追いかけるしかない。

裏道は地図になく、どこまでもくねくねと続き、終わりを知らない。でも、たしかに、どこかにつながっているような気がする。歩いているうちに、少しずつ、そんな思いが私を捉えるようになった。

そこでは、歩くことだけが大事なことだったのだ。

 

一歩あるくたびに、流れるように景色が切り替わった。顔を上げるたび、そこは一面の砂漠になったり、高層ビルだらけの街角になったりした。それが面白くて、私は夢中で歩いた。

 

裏道を抜けたところに、何かある。そこには何かが開かれている。歩いているとわかるのだ。外から見れば、そこは小さな、閉じた世界に過ぎないとしても。

何にむかって開かれているのか、どこにむかって開かれているのかさえ、わからない。でも、とにかく、開かれている。何かがある。そこは、そういう感じのする道だった。

 

大きな道から派生した、無数の小さな道。それらは同時に、大きな道を存在させてもいる。

女神が歩けば、そこに道ができてゆく。女神に似合わない、そのくねくねとした歩き方を思い出すたびに、私の道は陽の光にさらされる。わけのわからない光が差しこんでくる。

それはふしぎな光で、いつも私に、歩くことのたのしさを、弾くように教えてくれる。弾かれるようにして私は立ちあがる。ひとりで輝くために。歩くために。立ち止まるために。

 

 

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どう考えても好きなカーブ

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数年前の足の日焼け

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.08.08

脱出Ⅱ

私が夏やすみらしい夏やすみを持ったのは、大学生になってからである。それまでの夏やすみの記憶はどこか遠く、霞がかかったようにぼやけている。たぶん、時間や宿題、学校でのことなど、夏の間絶えず私がなにかに追いかけられていたせいだろう。

はじめて、何にも追いかけられることのない、純粋な夏休みを手にした私はここぞとばかりに旅へ出かけた。なんとかして現実から脱出しようという、いかにも大学生になったばかりの人間が考えそうな動機からだった。

しかし、脱出することは、私が想像していたよりもずっと困難なことだった。

まず、脱出するべき場所を、じぶんがどこから脱出せねばならないのかを探すところからはじめなければならないことを、私は知らなかった。そして、脱出したならば、じぶんがつぎに向かうべき場所を考えなければならなかったのである。

なんと困難なことだろう。しかし、それはなんと私をわくわくさせたことだろう。私はわくわくするものを信じたかったのだ。

なんにも持たないところからはじまる夏やすみは、私をとおいところにつれて行ってくれた。

じぶんの部屋を出て行く瞬間が、玄関の匂いが、あの日から胸の中に用意されていて、私はいつも、そこからなにかをはじめているような気がする。

なんにも持っていない状態に、私はいま猛烈にもどりたい。私がとおくまで行ける場所にもどりたい。それに、そうしてよいのだ、少なくともそう願ってよいのだといまの私は思うのだ。

あの頃のじぶんが待ち望んだいまを生きること。これが、正解のない世界の中で私が私に用意した、ひとつの正解である。

 

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角がすき!

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キラキラも好き!

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上からの眺め

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路地にすいこまれる夏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.08.07

ここがどこにでも行ける空港であるということ(あるMVを観ての小記述)

父方の祖父は、空港が好きだった。私たち姉弟は小さいころ、よく空港に連れて行ってもらった。飛行機に乗るわけではない。空港のテラスから、ただ飛んで行く飛行機を眺めるのだ。

 

祖父は飽きることなく空港に私たちを連れて行っては、テラスから飛行機を眺めた。

私の記憶やイメージからすると、祖父はけっして旅好きな人ではなかったように思う。あるいは、彼はほんとうは旅好きだったのだろうか。もしそうだとしたら、祖父を空港のテラスにとどめていたものは、その、旅にあこがれた彼自身だったのかもしれない。

 

あるMVを観ていて、祖父といた空港のテラスを思いだした(空港感にあふれるビデオだったので)。あの頃、まだ空港は古く、埃っぽかった。私はどこにも行けなかった。あまりにも小さかったし、私にとって世界は、ぼんやりとした大きな水たまりだった。それ以上のものでも、それ以下のものでもなかった。私はただその水たまりをぼんやり眺めていた。

 

いま、あのテラスに戻ってみると、何が起こるだろう。私をどこかにつれて行ってくれるはずのものは、まだあのテラスに残っているだろうか?私の中にまだ残っているだろうか?そんな考えが、MVを観ているうちに、とりとめもなくあたまに浮かんだ。

MVの中では、まばたきする間もなく場面が切り替わる。彼らが腕を振れば彼らの着ているものが変わる、彼らがまばたきをすれば彼らのいる場所が変わる、天気が変わる。そのことがなぜか、私をかぎりなくなぐさめた。

 

燃えるような景色が見たい、といま私はつよく思う。それがどんなところにあるにせよ、見てみたい。まだ見たことのないものを見たい。彼らの動きは、その景色がどこかにかならずあるということを指し示し、私を空港のあのテラスへと、物語へと連れ戻してくれる。

 

 

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むかしのお風呂。

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タイルがかわいい。

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ちょうど良い光。

 

 

 

 

 

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