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2020年6月 6日 (土)

とけこむ、浮きあがる

わたしはぼうぜんとすわっていた。うそみたいに雲のない日だった。庭の植物が日差しにちいさな輪をつくってきらめいていた。じかんがとてもはやく過ぎていくようにおもわれた。おかしい、いつだってじかんはわたし自身であったはずなのに。どこからかやってきては流れてゆくじかんに翻弄されるじぶんが情けなくて、泣きそうな昼すぎだった。

それまでみえていたものが、きこえていたものが、初夏のおわりとともに、なんだかきゅうにわたしから去っていってしまったような気がした。高すぎる空が梅雨をはこんでくる。

おもいたって家のそとに出ると、これまでとじこもっていたじぶんが、外の空気にふれるだけで社会のまっとうな一員になれるような、憂いをふくんだ希望のようなものが全身をさらに窮屈にした。わたしは座礁した難破船みたいに片隅でうごけずにいた。

ふと顔をあげたとき、吹いてきた風が胸になじんだ。風は、わたしがまるでそこにいないかのように吹きぬけた。心臓、そのほか臓器、髪の毛の細胞ひとつひとつ。眼球の内側。あらゆる内側に風が吹いた。その瞬間、わたしは風景にとけこんだのだ。簡潔に、いさぎよく、わかりやすく。同時にわたしは、じぶんがあらゆる場面から抜けだしてひとりになるのを感じた。

つまり、とけこむことは、浮きあがるということでもあるのだ。あらゆる場所から浮きあがったわたしはもう、泣いていなかった。また5秒後には泣きだすかもしれなかったが、そのとき、わたしの涙はとまっていた。涙を出すなんちゃらという器官にも風が吹いたのだろう。

にまーと、虫にわらいかける。そうすると、たくさんの目がじぶんのなかにインストールされてゆくのがわかった。トマトの目、サルビアの目、岩の目。岩は、なんとこの家の守り神だったのだ。祈りの連鎖。ポキポキと折れてはかってにつながってゆくことのおそろしさから解放されて、またすこしたのしく、生きていけそうな気がした。うそくさいけれど、素直な発見がいちばんわたしじしんをよろこばせるのだからしかたがない。そのよろこびが、まぎれもなくわたしを生かすのだ。あらゆる感覚とむすびついて。

その一瞬の反転が、そのとき吹いた風が、いまもすこし、わたしのなかのどこかにのこっている。そういうわけで、ブログを書こうとおもう。書くだけではなく、おそいテンポながらもやっている(やろうとしている)ことなどについても書いていこうとひそかにおもっている。

いまはみなさまととてもとおいような気がする。だけど、とおさはいつでもどこかにひそんでいたのだ。どんなときにも起こりうる。わたしには、どうすることもできない。そのとおさをとおいまま、たのしむことができたらいいな。かいちょ

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さんきょうだい

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