« 2020年5月 | トップページ | 2020年7月 »

2020年6月

2020年6月29日 (月)

短歌シリーズ⑦

見送ったあともアクセル踏めぬまま いつまでもラジオ聴きつづけてる


手のひらをうらがえすように喜劇と悲劇がとなりあわせの十五時


昼のウサギは行くあてのないままで 汗は道路にちりばめられて


大粒のフロントガラス打つ雨に溶ける街 まだ 頬杖の朝


きらめいた街は置き去り きみとまた 砂漠をこえて その向こうへゆく


成人のおとうとの寝がえりの音をきくあたしは真夜中の島


しろく淀む雨の隙間をすりぬける風にのって隣へ行きたい


ひた枯れたあじさいえらんで歩きだす ゆびさきから海、睫毛には雪

90d70b74cc7f47c0bd430b3e28440c81


| | コメント (0)

2020年6月14日 (日)

どしゃ降り

 

雨の日曜日はどしゃ降りになるまえに畑にハーブを植えに行った。ハーブはよく茂るので、希望めいたものをかかえて行った。畑に立派な野菜ではない、しょぼしょぼとした草やハーブがあるのをみると安心する。ぼーっとハーブのにおいを吸っていると、なんとなくユーモアが欲しくなった。いますぐ欲しくなった。だけどユーモアはひとりでにあらわれない。影のようにそおっとしのびよってくる。おおきすぎもちいさすぎもせず、高すぎも低すぎもせず、ちょうど真実が漏れぬくらいのおおきさでありたい。

まだわたしには、かなしいくらいいろんなものが足りなくて(それはずっと満ち足りることのないものなのだろうけど)、じぶんの文体なんかを確立するにはあまりにも青々しい。だけど、どんなとおきでも、時代が変わっても、これは!とおもうものをちゃんとみつけて、なにがあってもそれをやりたいし、ささえたいとおもう。鉄のものさしなんざボキボキ折ってやりたいのだがまずは、じぶんの生活をしんじていきたい。

いま目のまえにあることにさわって、あたらしい入り口をみつけて、そのなかに、そとに、あるものをみる。そこにちゃんとなにかがあるとしんじたい。

それはたぶん、わたしがみたこともないものだ。言葉をつきやぶって、かたちを抜けだして、ゆるやかに波に浮かぶみたいに、わたしはそれをたのしみにしている。そうやってしんじることが、たのしむということでもあるのだろう。

たのしみには、いろんなかたちがある。厭きることのないなにかを、それぞれがつづけていけたらいいとねがう。

 

それにしても一歩踏みだすことがこんなにむずかしいことだとは。じぶんで決めた一歩は、いつでも重い。その重みとたたかいながら、花でも植えながら、光をすくったり風にばらまいたり毎日できたら。そうやってたくさんみつけていけたら。ね

 

庭のヤマボウシの花はぜんぶ落ち、それでも懲りずにまたなにか植えたりしています。ほんとつかれる・・・。でもやめられないのです

 

868e6b82e19444f08db3fc45fd425fdc

作り雨にはブーゲンビリア

未来が微笑む

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2020年6月 8日 (月)

逃避行

ここのところ毎日、いもうとと逃避行に出る。

川がどうしてもみたいとか、野菜の苗を買いたいとかふたりであれこれ言って、家をでる。そうするとしばらく帰れない。帰りたくても帰れないのだ。帰るのにはじかんがかかる。

どこかへ行くことよりも、帰ることのほうがいつでもむずかしい。

そういえばきょう、用事があって銀行に行った。さいきんはほとんど毎日、銀行に行っているのだが、じぶんでもびっくりするくらいわからないことだらけだ。印鑑の押しかた、つぎつぎにくりだされる用語(それは勉強すればいいだけの話だけれど)!

それで担当の銀行員さんもそろそろちょっとあきれ気味、失笑気味で、わたしはきょうなんとなくじぶんの無知を恥じた。はい、わかりません、ということがなんだかスムーズにできないような気がした。どうしてだろうとかんがえた。

あたまをひねったまま逃避行していると、ふとかんがえがわいてきた。わからないことをわからないというのはあらゆるにんげん関係の基本ではなかったか。小手先の作法をあれこれまなぶより、ひとりとの接しかたをかんがえたい。それは、あらゆるものとどうかかわるかということでもあるのだから。

よくみてみればわかるはなしだ。それでもすぐにわすれてしまう。問いを秘めたままの逃避行は、案外いいものなのかもしれない。

 

5c6b17e492a543a8b619d8d19d02304f

星屑みたいなあじさいの名前

59b95f66de314129bc91b9c7cce41477

ズッキーニの花にはじめて会った!野菜の花かわいいです

9f812fbd38fb4f559ebcb42fd40ea31a

できそこないといわれても。好き!

 

かいちょ

 

| | コメント (0)

2020年6月 6日 (土)

とけこむ、浮きあがる

わたしはぼうぜんとすわっていた。うそみたいに雲のない日だった。庭の植物が日差しにちいさな輪をつくってきらめいていた。じかんがとてもはやく過ぎていくようにおもわれた。おかしい、いつだってじかんはわたし自身であったはずなのに。どこからかやってきては流れてゆくじかんに翻弄されるじぶんが情けなくて、泣きそうな昼すぎだった。

それまでみえていたものが、きこえていたものが、初夏のおわりとともに、なんだかきゅうにわたしから去っていってしまったような気がした。高すぎる空が梅雨をはこんでくる。

おもいたって家のそとに出ると、これまでとじこもっていたじぶんが、外の空気にふれるだけで社会のまっとうな一員になれるような、憂いをふくんだ希望のようなものが全身をさらに窮屈にした。わたしは座礁した難破船みたいに片隅でうごけずにいた。

ふと顔をあげたとき、吹いてきた風が胸になじんだ。風は、わたしがまるでそこにいないかのように吹きぬけた。心臓、そのほか臓器、髪の毛の細胞ひとつひとつ。眼球の内側。あらゆる内側に風が吹いた。その瞬間、わたしは風景にとけこんだのだ。簡潔に、いさぎよく、わかりやすく。同時にわたしは、じぶんがあらゆる場面から抜けだしてひとりになるのを感じた。

つまり、とけこむことは、浮きあがるということでもあるのだ。あらゆる場所から浮きあがったわたしはもう、泣いていなかった。また5秒後には泣きだすかもしれなかったが、そのとき、わたしの涙はとまっていた。涙を出すなんちゃらという器官にも風が吹いたのだろう。

にまーと、虫にわらいかける。そうすると、たくさんの目がじぶんのなかにインストールされてゆくのがわかった。トマトの目、サルビアの目、岩の目。岩は、なんとこの家の守り神だったのだ。祈りの連鎖。ポキポキと折れてはかってにつながってゆくことのおそろしさから解放されて、またすこしたのしく、生きていけそうな気がした。うそくさいけれど、素直な発見がいちばんわたしじしんをよろこばせるのだからしかたがない。そのよろこびが、まぎれもなくわたしを生かすのだ。あらゆる感覚とむすびついて。

その一瞬の反転が、そのとき吹いた風が、いまもすこし、わたしのなかのどこかにのこっている。そういうわけで、ブログを書こうとおもう。書くだけではなく、おそいテンポながらもやっている(やろうとしている)ことなどについても書いていこうとひそかにおもっている。

いまはみなさまととてもとおいような気がする。だけど、とおさはいつでもどこかにひそんでいたのだ。どんなときにも起こりうる。わたしには、どうすることもできない。そのとおさをとおいまま、たのしむことができたらいいな。かいちょ

Ccac6b8fe8d3441e9b59f2f9426e6e01

さんきょうだい

| | コメント (0)

« 2020年5月 | トップページ | 2020年7月 »