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2020年5月

2020年5月24日 (日)

マンモスに湯をかける

弟が出ていく日だ。なんだかこの世情のおかげで弟とすこしはゆっくり過ごせたような気がする。

親もとをはなれるということはただ事ではない。ウチでもきのうから皆どこかソワソワふわふわしている。おかげで空気がいつもより繊細で澄んでいる。ひとりひとりの声がよくひびく。こういうことがすこしずつでもみえてくるのはうれしい。ひとつのしぐさとか言葉のダンスに気づくことができるのはうれしい。じょうろで植物に水をやることが、なにかとてもおおきなもの、目にはみえないものに水をやることでもあると気づくのはたのしい。

氷のしたに沈んでいったマンモスたちにお湯をかけてやる。そしてわたしはじぶんの心にも水をかけてやる。そうやってすべてのものごとがひとつのしぐさに凝縮されてゆく。透きとおった矢になって時間をつらぬいてゆく。

そこからうまれる会話は、じぶんを、お互いを、時代から、あらゆる権威や抑圧から解き放つ。そしてはじめてわたしはそこに立つことができる。わたしの日常がはじまる。どしゃ降りのなか、散歩に行くといって静かに家を出て行った弟の背中がぼやけてゆく。謎から謎へ、つぎの扉がひらかれる。

だけどやっぱりさみしいーーーー。その背中がとおくに行ってしまうのは。ひとたびはなれてしまうということも、やはりただ事ではないのだ。だからわたしは、マンモスにお湯をかける。矢がどこまでもつづいていくように。ね。

 

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このまえ海で、ぼうふ を採ったよ。しゃきしゃき

かいちょ

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2020年5月19日 (火)

車窓はだれのもの

むかし、祖父が『世界の車窓から』というみじかい番組を好きだった。わたしたち孫は、それがはじまるといつも祖父に、おじいちゃん、なんでこんなの観たいの、チャンネルを変えて、とせがんでいた。そんなこともわすれてわたしは最近、列車の番組をよく観る。さっきも、インカの砂漠を縫うようにきらきらとはしる列車をみながら、うとうとしてしまった。

列車がうごきだす瞬間には、いつもどきっとさせられる。わたしのなかに無数のなにかが立ちあがる。混沌とした車内をかかえながら、オレンジ色の鮮やかな列車がかわいた街をつき抜けてゆく。わたしが列車にとりつかれるようになったのはたぶん、それが生みだす深い雑音と、沈黙を切り裂いてゆくそのやわらかさに魅せられたからであるのだろう。ひとりでどこへでも行ける、行ってやろう、といつしかおもうようになったのも、列車がたどってきた軌道のせいなのかもしれない。

車窓からみた景色は、だれのものだったのだろう、とときどきおもうことがある。たしかなものはひとつとしてなく、そこにはただおおきな景色とちいさな光景が反転をくりかえしながらあるだけだ。息をのむほどおおきなもののなかにある、それなのに、それよりももっとたしかにわたしの胸をつくもの。車窓はそれを垣間みせてくれる。

そういえば、わたしがはじめてほんとうの列車にのったとき(たしかあれは、大学3年の夏)、じぶんと反対の方向に列車がすすんでいるような気がした。どちらが始点で、どちらが終点なのか、はじめからおわりまで、見失いつづけた記憶がある。列車の頭上に浮かぶ満月がほんとうに心をしずめてくれたことも。

わたしたちを叱ることのけっしてなかった祖父は、その車窓からなにをみようとしていたのか。それとも、じぶんもその外側へ、と願ったのだろうか。インカの街をあるくとおい日の親子(この番組じたいがそうとうむかしのものだ、再放送)をねぼけたあたまで眺めながらわたしは、やはりまたいつか、じぶんでえらんだ列車にとびのりたいと淡くおもっている。


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バンコク-チェンマイの車窓から。色彩だけではない鮮やかさがちゃんとある。

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車内はむし暑い。手前のしかくい箱はお弁当。食堂車両でマッチョのおにいさんたちから買う。


かいちょ

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2020年5月15日 (金)

タネをまく

ごぶさたしております。

ここ数日、タネからそだてたハーブの世話をし、サルビアやらスズラン、マリーゴールド、ブーゲンビリアの水やりをし、あじさいと話し、畑の苗をそだて、わたしから花が咲きそう。咲くはず。そういえば、あのサボテンはまだ、花をつけつづけています。すごい。えらい。

わたしがやっているのはそんなにおおきなことではないけれど、じっさいにやってみると、おもっていたよりできることもあるし、できないこともある。うしなわれてゆくもののことをかんがえるとこわくもなるけれど、雨とか苗をみているとすこし安心する。いま、ここにいることがちゃんとたいせつなのだとわかるから。

わたしたちはおもうようにタネをまくことができる。ひとつの袋にはたくさんのタネがはいりすぎているけれど、それをすこしずつ分ければ、じぶんだけの庭ができる。じっさい、できた。ちいさいプランターだけど。

わたしたちが立つところこそが土壌なのだ。じぶんで、まくタネを決める。一刻一刻、決めてゆく。水さえやれば、おもったよりもタネはかんたんに芽をだす。その芽がわたしたちにあたえるのは、目。みることで、それはまたおおきくなるのだ。

なによりもたのしい。とにかくたのしい。葉っぱを透明に変え、水たまりを宇宙に変えるカギは、たぶんここにある。まだだれのものでもない。

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雨に降る花はしろい

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土に立つものたち

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フワフワ

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ビリーザキッドに雨が降る

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