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2020年3月

2020年3月31日 (火)

世界一たのしい散歩

わからないことが起きたとき、それをむずかしく語ったり、さらにわかりにくくしたりするのはかんたんだ。批判することも、間違っていることを正しいことで斬ることも、そんなにむずかしいことではないと思う。わからないことはけっこう浸透しやすい。

ひらきなおって、より紛れられる、よりカオチックに見える方に偏っていくほうが、むずかしいことをわかりやすく語ることよりもはるかに楽だ。それならばわたしは、わたしたちは、何を見なければならないのだろうか。答えはわからないながらも見えていると思う。立ちどまったわたしは考えてみる。焦りがすこしだけ頬をかすめる。

胸をはってもよいのだ。物語は手の中なのだから。今日、世界一たのしい散歩をしてもいいのだ。宇宙一おいしいコーラフロートをつくってもよいのだ。ちいさなプランターに、ちいさな花を植えてもよいのだ。

 

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ふわふわ凶暴なアンゴラせんぱい!かいちょ

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2020年3月28日 (土)

『スパイス研究会』

第一弾ができました。タイトルは『スパイス研究会』。卒業文集だと言い切ってしまうにはもったいないぐらいの出来栄え。ちゃんと本になってる。スパイス研究会を名乗りながら物理的なスパイスについてはまったくかすっていないのですが、なんといったらよいか、スパイス研究会らしい内容にちゃんとなっているので、みんなに読んでいただきたい。いまは、ネットとかで販売できる方法がないかどうか模索しているところ。ネットというものとことごとく相性の悪い私ですが、なんとか、少しずつ、いろんなことができるようになっている気がする。

 

そして、本の宣伝方法についてはいろいろ考えた。ふつうに出版されている本とかだったら、たいてい帯がついている。私はあれが大好きなので、100枚手作りの帯をつくろうか、とも考えた。たとえば、

失ったもの、そして新たなスパイスの軌跡――。

わたしたちだけの青春、わたしたちの青春。

 

だめだ。ぜんぜんイカしていない。帯文はだれかに書いてもらってはじめてかがやきはじめる。だけど、どうにかして読んでもらいたい。わたしはこの文集を、自分たちのためだけにつくったのではない。どこのだれのためにつくったとも言い切れるものではないけれど、とにかく放たなければいけないと思った。その軌道を思い描いた。ほんとにかっこわるい、と思いつつ、おもわぬところからやってくる恥ずかしさに身をまるめつつ、つくったのだ。だけど、そんないたたまれなさ以上に、この本はかたちになる前から、かたちになる予感を秘めた、そうなるしかないようなつよい光を孕んでいた。

 

正直わからないことだらけで、いまも私は完成した本を両手でもてあそんでいる。だけど、あのときの一瞬のゆいちゃんの表情を、ふーみんの涙を、わたしは思い出すのだ。あれが嘘なわけがない、私にもわかる。あの光はほんものだ。私はたぶん、誰よりもつよくそのことを信じている。そうしたいからだ。

 

そうやってできあがったものが、いま目の前にある。わからないことだらけなのはいまだって変わらないけれど、なんだかとてもたのしい。ここにあるのは、でたらめな美しさだけではないのだ。私の信じたものが、私たちが繰り返し迷いながらも信じたものが、まっすぐに光を放ちながらちゃんとある。

 

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こんなかんじ!

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2020年3月19日 (木)

日々はそれでも輝いて

 

 

何者かに

なろうとして

何者でも

なかった

日々は

それでも

輝いていた

 

 

これは、このあいだ出会ったある方からいただいた本の帯文だ。

『谷郁雄エッセイ集 日々はそれでも輝いて』(ナナロク社)という本で、このフレーズは谷さんの詩から抜粋したものでもある。

本には、ボブ・ディランや中原中也、ヘッセ、ランボオなどが登場し、私も愛する詩や詩人、写真家たちのことが

谷さん自身の経験とも分かちがたいものとして書きつづってある。本はもちろんすばらしい。

何がすばらしいかというと、その言葉の正直さだ。正直な言葉には、つよい力がやどっていると思う。

そして、ほんとうに正直な言葉というものを持っている人はそんなに多くはない。

単純なものが正直なわけではないし、むずかしいものが正直なわけでもないからだ。

正直な言葉は、わたしを突きうごかす。何かを簡単に変えてしまう。

ちょうど3月の風のように、どんなきれいなものも持ち得ないつよさで。

 


 

日々の忙しさを捕まえられず、それでもと足掻いて、忘れてきたたくさんのことを思い出すように、

そっとつけてきた手帖を見返すように、ひそやかに安らいでは運ばれる。

どこにでも行けるような気がしたし、どこにも行けないような気もしていた。

あんなにすすまないだろうと信じていた時間がすすんでしまって、

手元にはもう何ものこっていないように見えて、

わたしたちはまたふさいでしまう。

 

日々はそれでも輝いて。

 

忘れてゆくにつれて、何かをこぼしてゆく感覚に慣れてくるにつれて、

咲かせたいと思うようになるのはなぜだろう。

日々はそれでも輝いて。

私も今日は言いたい。

 

晴れの日に外に出たくなるように、

ふと風に吹かれたくなるように。

 

 

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2020年3月 2日 (月)

旅のはじまり

例のアレがたたってラオス行きが中止になり、いま、福岡の実家でこれを書いている。

 

“まず、私の場合、旅立ちがそんなに晴れやかなものではない。いつだって腹痛(緊張やストレスを感じると発作的に起こる)とたたかいながら、列車に乗る直前まで、引き返そうかと本気で考えているのだ。あろうことか、過去の出来事や家族の顔までもが走馬灯のように浮かび上がってくる。にもかかわらず、私を列車に乗せてしまうものは何なのだろうか?そしてひとたび列車に飛び乗ってしまうと、そこからはもうただどこかへ運ばれる。移動は、だいたいいつもそんな感じではじまる。アパートの部屋から出る時だって同じだ。基本的には、「ずっとここにいたい」のに、何かが私を運びだしてしまう。”

 

これは、去年わたしが書いたエッセイからの引用である。旅はいつでも、基本的には気がついたらはじまっている、という感じだ。だけど、終わりがいつなのか、と問われると、わたしの答えはきっとあやふやだ。飛行機が福岡空港に着陸した瞬間や、自分の部屋に帰りついた瞬間なのではないか、と言われると、そうではない、と思う。そんな感じはしない、というのが正確かもしれない。旅は、いつも続いているのだ。

もちろん、何かに区切りをつけるための旅だってあるだろう。何か目的を果たすための旅もあるはずだ。あって当然だと思う。それが移動の醍醐味でもあるのだから。だけど、わたしの場合、旅はコントロールできるものではない。すべてのものごとにおいて、目的意識(というのかな?)が欠けているのだ。どこかにたどり着こうとか、そういうものが、どのスケールの旅においても見当たらない(ここでいう旅のスケールとは、わたしが決めるものではない。自分の旅がどんなものであるかはそれぞれが決めるべきだし、考えつづけるべきだ)。

目的を設定しないこと自体はあまりいいこととはされてこなくて、それは学校教育においてもそうだし、社会に出てもだいたい同じようなことが言われていると思う。どこかを目指すことで、一時的に達成感のようなものを得られることは、わたしもこれまでのわずかな経験から知っている。だけど、それがなくたってわたしはこうして進んでいる。何も不思議なことではない。自分でも、どこに向かっているのかわからないまま、ひろい原っぱをさまよっている。これが、進むということか。

旅はたのしい。ひとり歩くということはとてもたのしいことなのだ、ほんとうは。風が吹き、雨が落ち、星が降る。日差しはやわらかにさす。この場所を、わたしは気に入っている。

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どこを歩いても、にゃん!かいちょ

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