2021.09.10

隣国への旅の序章

 

BTSを知り、彼らに惹かれてゆくうちに、あたりまえのことなのだが、じぶん自身と隣国との距離を意識するようになっていた。

私が彼らを知ったのは、ある日偶然つけたテレビ番組によってである。いつもならつけてもすぐに消してしまうはずのテレビを、私がそのとき消さなかったのはなぜだろうか。彼らの生き生きとした表情、しぐさ、雰囲気。たしかにイケメンではあるのだが、ただのイケメンとも、情熱的とも、破壊的ともちがう、なにやらわけのわからぬ魅力。そういうものに惹かれたのだ。テレビを消すわけにはいかなかった。

そんな、古い門に絡まったツタのように入り組んだ魅力のなかで、私をあきらかに虜にしたのが、ことばだ(歌やダンスは言わずもがなである)。彼らの話すことばの発音の美しさと、なにかを絶えず気づかせてくれるようなしゃべり方、その独特さに引き寄せられるようにして、私は隣国についての勉強をはじめることに決めた(韓国のことわざに、「はじまりが半分だ」というのがある)。

いまや、隣国についての資料は私たちのまわりにいくつも散らばっている。まるで宝箱がすぐ手元にあるみたいだ。BTSの曲やメイキング、インタビューその他動画はもちろんのこと、韓国と深くつながっていた詩人茨木のり子が書いたもの、尹東柱をはじめとした隣国の詩たち、Netflixで配信されているテレビドラマや映画など、私もいくつかのものに触れる機会があった。

 

テレビドラマの中で私が特に好きなのは、2020年に放送された『サイコだけど大丈夫』。ここに、このドラマについてのメモを少しだけ記しておきたい。

まず、このドラマのわかりやすい、ありふれたストーリーの中にちりばめられているものに私は目をみはる。それは、目にし、胸の中にしまうと、たちまちきらきら光って飛び跳ねるものたちだ。それらの断片が全体に及ぼす影響力のようなもの。その連続性によって開かれる道。画面の中にはこれらすべてがある。すべてのことは画面の中で起こり、繰り返される。その予兆を秘めている。

つまり、このドラマそのものが、あのさびれた、でもどこまでも歩きたくなるような道の装いなのだ。おとぎ話のようでいて、そこには人間の生活がある。夕暮れ、街、海、夜、明かり、衣服。そこでは、あらわれるはずのない人が目のまえにあらわれ、私たちは見るはずのなかったであろう物事を目にすることになる。なにが起こっていることで、なにが起こっていないことなのか、私たちはそれをじぶん自身で見きわめるしかなくなるのだ。

もうひとつ、配信だからなのか?、隠されていた場面、本編では流れなかったシーンが、エンドロールで流れることがある。本編で流れる、言わばメインのシーンの隙間に、そんなしぐさが、そんな言葉が隠されていたことに、私はいつも驚く。

このドラマの中には、じぶんが他の誰かかもしれないという想像力が存在している。偶然出会った人間同士が、じぶんを相手に重ねるのを、そしてしばし入れ替わりのようなことが起こるのを、私たちは離れた場所から発見する。

目に見える、ということは、「違い」を意識することに直接つながっている。たくさんのことが目に見える現代という時代の中で、私たちはその「違い」を、目には見えないところで、どう捉えてゆけばよいのだろう。驕ることも、卑屈になることもなくそれをおもしろがることが、私にはできるだろうか。やってゆきたい。

 

それで、まずは自国と隣国の歴史の勉強からはじめるのである(「はじまりが半分だ」!)。古い歴史の中で、侵略されることはあっても、一度も隣国を侵略したことのない国。どんなことがあっても、じぶんたちの言語を守り抜いてきた国。私はまだ、隣国についてなにも知らない。でも、知りたいのだ。だからこれを、私の隣国への旅の序章とする。

対馬の展望台に行くと、そこから隣国の街を仰ぎ見ることができるという。いつか晴れた日に行ってみたい。とおくから眺める釜山の街は、どんなふうにみえるだろうか。

 

この序章のつづきについては、また書こうと思う(『サイコだけど大丈夫』の話ばかりになってしまった!)。

 

 

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キーボードでは打てない何か

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可愛いもの

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道端に咲いたニラ。

 

 

 

 

 

 

 

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2021.08.19

裏道と女神とひとりで輝くことについて

 

私に裏道を教えてくれた女神がいる。私の女神。ある日とつぜんあらわれて、ある日とつぜんどこかへ行ってしまった。

私はそれまで、大きな道を歩くことしか知らなかったので、すり抜けるように裏道を歩く女神の小さな背中について行くのに精一杯だった。

女神はどこか不規則なリズムで、早足に歩いた。

 

私には、裏道を歩くこと自体が衝撃だった。じぶんがどこを歩いているのか、どこに向かっているのか、わからない。とにかく、女神の背中を追いかけるしかない。

裏道は地図になく、どこまでもくねくねと続き、終わりを知らない。でも、たしかに、どこかにつながっているような気がする。歩いているうちに、少しずつ、そんな思いが私を捉えるようになった。

そこでは、歩くことだけが大事なことだったのだ。

 

一歩あるくたびに、流れるように景色が切り替わった。顔を上げるたび、そこは一面の砂漠になったり、高層ビルだらけの街角になったりした。それが面白くて、私は夢中で歩いた。

 

裏道を抜けたところに、何かある。そこには何かが開かれている。歩いているとわかるのだ。外から見れば、そこは小さな、閉じた世界に過ぎないとしても。

何にむかって開かれているのか、どこにむかって開かれているのかさえ、わからない。でも、とにかく、開かれている。何かがある。そこは、そういう感じのする道だった。

 

大きな道から派生した、無数の小さな道。それらは同時に、大きな道を存在させてもいる。

女神が歩けば、そこに道ができてゆく。女神に似合わない、そのくねくねとした歩き方を思い出すたびに、私の道は陽の光にさらされる。わけのわからない光が差しこんでくる。

それはふしぎな光で、いつも私に、歩くことのたのしさを、弾くように教えてくれる。弾かれるようにして私は立ちあがる。ひとりで輝くために。歩くために。立ち止まるために。

 

 

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どう考えても好きなカーブ

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数年前の足の日焼け

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.08.08

脱出Ⅱ

私が夏やすみらしい夏やすみを持ったのは、大学生になってからである。それまでの夏やすみの記憶はどこか遠く、霞がかかったようにぼやけている。たぶん、時間や宿題、学校でのことなど、夏の間絶えず私がなにかに追いかけられていたせいだろう。

はじめて、何にも追いかけられることのない、純粋な夏休みを手にした私はここぞとばかりに旅へ出かけた。なんとかして現実から脱出しようという、いかにも大学生になったばかりの人間が考えそうな動機からだった。

しかし、脱出することは、私が想像していたよりもずっと困難なことだった。

まず、脱出するべき場所を、じぶんがどこから脱出せねばならないのかを探すところからはじめなければならないことを、私は知らなかった。そして、脱出したならば、じぶんがつぎに向かうべき場所を考えなければならなかったのである。

なんと困難なことだろう。しかし、それはなんと私をわくわくさせたことだろう。私はわくわくするものを信じたかったのだ。

なんにも持たないところからはじまる夏やすみは、私をとおいところにつれて行ってくれた。

じぶんの部屋を出て行く瞬間が、玄関の匂いが、あの日から胸の中に用意されていて、私はいつも、そこからなにかをはじめているような気がする。

なんにも持っていない状態に、私はいま猛烈にもどりたい。私がとおくまで行ける場所にもどりたい。それに、そうしてよいのだ、少なくともそう願ってよいのだといまの私は思うのだ。

あの頃のじぶんが待ち望んだいまを生きること。これが、正解のない世界の中で私が私に用意した、ひとつの正解である。

 

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角がすき!

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キラキラも好き!

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上からの眺め

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路地にすいこまれる夏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.08.07

ここがどこにでも行ける空港であるということ(あるMVを観ての小記述)

父方の祖父は、空港が好きだった。私たち姉弟は小さいころ、よく空港に連れて行ってもらった。飛行機に乗るわけではない。空港のテラスから、ただ飛んで行く飛行機を眺めるのだ。

 

祖父は飽きることなく空港に私たちを連れて行っては、テラスから飛行機を眺めた。

私の記憶やイメージからすると、祖父はけっして旅好きな人ではなかったように思う。あるいは、彼はほんとうは旅好きだったのだろうか。もしそうだとしたら、祖父を空港のテラスにとどめていたものは、その、旅にあこがれた彼自身だったのかもしれない。

 

あるMVを観ていて、祖父といた空港のテラスを思いだした(空港感にあふれるビデオだったので)。あの頃、まだ空港は古く、埃っぽかった。私はどこにも行けなかった。あまりにも小さかったし、私にとって世界は、ぼんやりとした大きな水たまりだった。それ以上のものでも、それ以下のものでもなかった。私はただその水たまりをぼんやり眺めていた。

 

いま、あのテラスに戻ってみると、何が起こるだろう。私をどこかにつれて行ってくれるはずのものは、まだあのテラスに残っているだろうか?私の中にまだ残っているだろうか?そんな考えが、MVを観ているうちに、とりとめもなくあたまに浮かんだ。

MVの中では、まばたきする間もなく場面が切り替わる。彼らが腕を振れば彼らの着ているものが変わる、彼らがまばたきをすれば彼らのいる場所が変わる、天気が変わる。そのことがなぜか、私をかぎりなくなぐさめた。

 

燃えるような景色が見たい、といま私はつよく思う。それがどんなところにあるにせよ、見てみたい。まだ見たことのないものを見たい。彼らの動きは、その景色がどこかにかならずあるということを指し示し、私を空港のあのテラスへと、物語へと連れ戻してくれる。

 

 

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むかしのお風呂。

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タイルがかわいい。

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ちょうど良い光。

 

 

 

 

 

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2021.07.29

中庭

 

小さな中庭がほしい。

そこに小さな椅子を置いて、池に月をうつしてみているのだ。

夏でも秋でもよい。そこには夜風が吹いている。

誰も知らない中庭がひとつほしい。

誰にもみつからない場所に

街中の路地のいちばん静かな扉の向こうに。




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昼か夜かわからない道

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芙蓉?なんの花だろう

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この夏は源氏物語を読むぞ。








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2021.07.18

東南アジアに行きたい

 

東南アジアに行きたい。ある日とつぜんそんな思いが私を捉えるようになって、困惑した。それまで、そんなに遠くに行きたいと思ったことはなかったし、どちらかというと、部屋の中でひとりでじっとしている方が私には合っていた。

それなのに、結局、私は何度もタイやカンボジアに足をはこんだ。

じぶんが思ったことは、そのまま道だ。地図にはない道だ。あの日の私は、夢を見るような素直さで、ためらわずにその道を歩いた。私が道そのものだった。道は、なにをするかということでは、できてゆかないのだった。

タイやカンボジアに着くと、たいてい、足を引きずりながら、ほとんど這うようにして古い寺や遺跡を見てまわった。濃い緑に薄黄色の光が差す境内を、野良犬ににらまれながら歩き、仏像のそばに向かった。

あのとき、まったく知らない土地でひとり、なじみのない巨大な仏像のそばにいたというそのことが、いまも、しるしのないオアシスのように私をなぐさめることがある。そして私はいま、それらの場所から遠く離れている。でも、どうしても、あのときのいくつもの旅が日常から離れたものであるとは思えないのだ。

人生に、もしも縮図のようなものがあるとしたら、あの、じぶんの意思とは関係なしに何度も旅に出ては、浮浪者のように歩いた日々ではないか、と思うことがある。もちろん、こんな考えは私の夢の一部に過ぎないのかもしれない。でも、いま、私をどこに向かわせるでもなく駆り立てるものがあるとしたら、あの熱気にまみれた緑の遺跡と、黄金に光る巨大な仏像のそばにいたというそのことなのだ。

暑い日に、遠くの国で、想像もつかないほど大きなものをまえに立ちつくすじぶんが、いまもどこかにいるような気がする。

 

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こんなに大きな船はどこから来たのだろう

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大きな橋を渡りながら

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.06.08

宇宙人の友だち

まだ5月が6月をおいかけてきているような気がする。梅雨なのに雨が降らない日がつづいている。ちょっとくらい雨がふってくれた方が、野菜たちにとっては都合が良いのに。

先週、友人からとつぜん大きめの封筒が届いて、なんだろうとおもったら、きんつばと、「口琴」という小さな楽器がはいっていた(手紙もはいっていた)。

わたしは、楽器というものとじぶんがうまくなじめないとずっと思ってきた。すごく音痴だし、たぶん息の吐き方とかも普段からちょっとおかしい。じぶんの身体を、じぶんの思うように動かせないという、何に対してなのか、そういう負い目みたいなものがあるということも関係しているかもしれない。

でも、音が鳴るものは好きで、むかしはよく草笛などにも挑戦した(が、少しでも音が鳴ったことはたぶん一回もないと思う。口笛もほとんど毎日吹いているのだが、いまだに十日にいっぺんぐらいしか音が出ない)。ギターも持っているし(これはじぶんと家族、親しい友人たちに聴かせたことがある)、小学生のころにはピアノもやっていた(これはとりわけひどく、高学年になってもバイエルを卒業できないうえに、発表会では極度の緊張のせいでほとんど弾くことができなかった)。

そんなわたしのところにかわいいかわいい口琴がやって来た。手づくりの説明書つきだ。説明書をじっくり読んで、そのとおりにやってみる。まったく音が出ない。唇をあてる部分がまちがっているみたいだ。もう一度やってみると、びよーん、と奇妙すぎる音が出た。まるで宇宙人がしゃべり出したみたいだ(これはじっさいに鳴らしてみると、わかっていただけると思う)。何度かやっているうちに、すこしずつ音のバリエーションがふえてきた。わたしはあたらしい言語を発明しかけていた。もうすこしで、宇宙人と友達になれるかもしれない。

音は相変わらずよくわからない未知の記号だが、それはわたしを自由にする。音が鳴ると、知らない道を見つけたときとおんなじ気持ちになる。そんなとき、わたしの中に自由が迷いこんでくる。一瞬、自由がわたしの中で迷っているのか、わたしが自由の中で迷っているのかわからなくなる。そんなとき道は、歩くためでも、迷うためでもなく、ただそこにある。

さみしくなると鳴らしたくなる、友だちみたいな音を、口琴という楽器はもっている。

 

 

 

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口琴(友人が作成した説明書による):「振動弁をふるわせて その振動を 口の中、のど、お腹、鼻にひびかせて音を出す。わりと世界の色んな国に見られて、色んな形、素材があります」

わたしがもらったのはたぶん東南アジアのどこかの国に由来するものだろうか?

 

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楽器は渦巻きを逆回転にする。わたしはつい楽器に話しかけてしまう。わたしも楽器になりたいとぼんやりおもう。 

 

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おんなじ株から、毎年色のちがう花が咲く。

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憧れの黒字金つば

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藻をながめるといい気持ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.06.04

古い街に行きたい

どこか古い街に行きたい。

そこで、知らない道に出会いたい。

その道を拾って、持って帰りたい。

 

 

 

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うっかりうっとり

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光の街は部屋の中に(私はまだ、羽毛布団にくるまって寝ています)(羽毛布団とのしあわせも、ながくはつづかない)

 

 

 

 

 

 

 

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2021.05.27

はじめにやったようなやりかたで

きょう、帰る途中に、海に寄った。日もながくなってそこらじゅうぴかぴかしていたし、海に行ったらもっともっとぴかぴかが見られると思ったから。でも、いつものわたしの特等席にはあろうことかふたりのポリスがいて、わたしは海岸に立ち入ることはおろか、海を見ることさえもできなかったのだ。かなしかった。

そんな気分で部屋に帰ってきて、これを書こうと思い立った。これを書いていると、じぶん宛ての手紙を書いているような気分になるし、鉛筆でぐちゃぐちゃととりとめもない線を引いているような気分になる。それはとてもたのしいことだ。最悪の状況の中にも、たのしいことはあるものだ。わたしはじぶんに言いきかせた。

 

話は変わるけれど、わたしは、なにかを捨てるということが苦手だ。たぶんそれは、わたし自身のこわがりとかちょっとおかしなこだわりとかに関係しているのだとおもうのだけれど、それにしても、ちょっとびっくりするくらい捨てられない。いちどなにかを拾ってしまったら、魂ごとくっついてしまったと言わんばかりの執着をみせてしまう。当然、気がつく頃にはいろんなものが増えている。大量の本。紙。ペン。服。食器。

雨の季節になると、それが重たくてたまらなくなるのだ(じぶんのせいである)。

 

一度すべてを捨てて(あるいは捨てられるものを捨てて)、なんにもない砂漠から、大好きな荒野から、考えてみなければならない、はじめてみなければならないときが来ているのかもしれない。たとえそれが、素人思考だとしても。なにかあるたびに、毎日、その荒野から歩き出す。いま、そうすることぐらいしかあらゆる方法が思いつかない。

でも、もしかしたら、じぶんの足で歩くとは、こういうことを言うのかもしれない、ともおもう。

このブログだって、ひとつのささやかな思いつきが、ぐちゃぐちゃに引いた線の中から浮かび上がるものが、ふいに水面に浮かんできらめく魚のうろこが、それを見るわたしの目があってはじまる。それがすべてのはじまりなのだ。一瞬のはじまり、次なる言葉のはじまり。その絶え間ない予感が、わたしを動かしているような気がする。

もういちどはじめたい。

はじめにやったようなやりかたで。

ごちゃごちゃしていて、ちょっと頭でっかちで、でも軽くて澄んだあのやりかたで。

 

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離れれば離れるほど近づくということがあるのだ

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ほんものはもっとビビッド。

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またお会いしましょう

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2021.04.02

ふたつの窓

 

わたしの部屋には窓がふたつある。

 

窓がふたつあるということは、そこに道ができるということだ。

風は一年中つよいし、日はよくあたる。

 

昨日、夕方そのふたつの窓を思いきって開け放つと、近所にやって来ているやきとり屋さんのクルマからだろう、ものすごくよい匂いが部屋の中にはいってきた。その瞬間、なんだかすべてがとてもすばらしく思えてしまったのだ。

ここにいつでも通り道があるというのは、なんというすばらしいことだろう。

 

その目には見えない道は、ときに滑走路に変貌してわたしの考えを窓のそとへ飛び立たせたり、ときに砂漠の一部分になってわたしを途方に暮れさせたりする。

でも、道はかならずどこかにつながっている。そのことだけはわかる。

だってこんなにいい匂いのする風が吹いているんだもん。

 

じっさいの道が、心の中の地図にある道とかさなるのが4月。

花もたくさん咲いている。

 

  

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てつこさん……

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私の部屋。やどかりの殻みたい

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泉から水がわき出した瞬間。

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白いラマ。吸いたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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