2020年9月19日 (土)

フカフカに

週末(下書きは火曜でした)に耕運機を買い、カチコチだった畑をようやくたがやした。土はそれはもう、ちょっとびっくりしてしまうほど、うつくしい茶色になった。耕運機のタイヤはグルグルとものすごいいきおいでまわって、土をかきまぜた。あたしはちょっと目がまわってしまった。

 

フカフカに土をたがやしたからといって、かならずしも芽がでるわけではない。立派な野菜がそだつわけではない。立派な野菜が育ったとしても、瞬く間にそれは枯れてしまう。だったらどうしてこんなに土をフカフカにしないといけないのか?フカフカにしたいとおもうのか?

 

まだ見ぬものを現実にするためには、信じることが必要だ。たとえば、にんじんのタネをまくのならば、やっぱりフカフカの土にまきたいな、とおもう。それは、信じるということとつよくむすびついているような気がする。

 

あたしが、できれば甘くておいしいにんじんがたべたいな、とおもう。それは、いまの時点では、理想でしかない。だけど、その理想がなければ、現実はもっと平坦なものになってしまう。まず、土をフカフカにすることなんて思いもしないだろう。にんじんのことをつよく思えばおもうほど、土はやわらかく、うつくしくなっていく。そして、その土をたがやすという行為それじたいが、理想のにんじんができたときとおなじぐらい、もしくはそれ以上、もしくは比較のできないよろこびになる。よろこびは、じぶんの心が知っているものだ。

 

だから、もし畑がなくなっても、あたしは別のものをたがやすだろう。一度知ったほんとうのよろこびというものは、そう簡単に消えるものではないのだとおもう。それを自由とするのか、不自由とするのかも、完全にじぶんの自由なのである。だから、信じることは、こわい。その「こわい」力をどう信じるか、どうつかうのか、あたしたちは判断していかなければならない。

 

理想(妄想??)と現実の絶え間ない波のすきまにあるものを、たがやす。その先にあらわれる世界を信じたい。

 

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海岸のネコサン のんびりマイペース

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まばたきする間に日がしずむなあ

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豆みたいなのがなるやつ

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かがやくような

これはセンニンソウ?

 

ブログには、日々のなかでじぶんで知ったこと、気がついたことしか書いていない(かけない)ので、ボッチリマイペースな感じになってしまっていますが(とはいえじぶんをふるいたたせてもうちっと書きたい)これからもどうぞきながくおつきあいくださいませ。かいちょ

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2020年9月 3日 (木)

たったひとつの羅針盤

夜、これを書いていたらいつの間にか朝になっていた。昨日の恐怖と暴風雨はどこ?

 

きのう、バイトを辞めた帰り道、県立美術館に寄った。ならんだ野見山曉治の絵を、だれもいないギャラリーでみた。とおり過ぎるのではなく、立ちどまってみているとみえてくるものがある(あたしは、立ちどまりすぎ!)。いま、目のまえにあるものと向きあう。目のまえの一枚の絵と向かいあう。わたしにはそれしかできない。

 

ひとりのもの、ひとつのもの、その奥にあるほんとうのかたち、みえないところにいるそのひと。絵をみてわたしはなにかのはじまりを、いまいる場所からまたみいだそうと目をひらきなおした。そうしたら、すすけてくらい場所に満ちてくる光があんなにもうつくしいことをじぶんの感覚で知った。

 

そう!じぶんの感覚で知ったということをじぶんでわかったのだ。みつけようともおもわずにみつけたじぶんの声。その声で話すことの大切さ。いつでも、行為や言葉は、じぶん自身から発されなければならないのだと、おもいだしたみたいに気づく。そのために、あらゆるものをみようとしなければならないのだろう。ものごとがもつありふれた側面ではなく、それそのものをみつめる愛をもって。

 

それがいつか、じぶんの居場所を、そしてだれかの居場所をつくるのだと信じている。

 

台風明けでやたら風がつよいきょうも、そのほんの一瞬いきよく跳ねる心があればあるいていける。そのいきいきとした感覚は、借りものではない、たったひとつのほんとうの羅針盤だ。

 

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ひさしぶりにくまだいを散歩した

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ベンチから草がはえてるってほんと?

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草花はひとあしはやく衣替え(一句)

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ぶふげんよこのイチョウ並木。

金色にそまるころにまた来たい。かいちょ

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2020年8月23日 (日)

じぶんの花を

雨と雷ですこし安心して、夕方せかせかと散歩にでた。ちかくの海岸へあそびにくる人のおおさにこっそり鼻をつまみながら、ぽつぽつあるいた。雨のあと、金色に光る枯れ草や花びらのうすいブーゲンビリアの連なりをくぐってなんとか生きのびた感。

じぶんで花を育ててみて気がつくことがある(わたしはなにかそだててないとすぐにかんたんにダメになるタイプのにんげんだ)。鉢植えひとつに花を植えることに費やすものがどれほど多いかということ。

ちょっと意識してあるいていると、あちこちの玄関先に、ちいさい鉢植えがちりばめられている。そこに植わった花の個性といったら!

見知らぬひとの日常にもなじむ、たったひとつの花を、はかりしれない思いと努力の裏に植えつけたすごさ。それらはわたしたちの目になじみながら、同時になくてはならない「ただそこにあるもの」になっていく。かんたんではない作業のいくつもの上にある、たったひとつの行為。わたしの散歩。

そうやって出不精、面倒くさがりのわたしもよいしょと立ちあがって花を植える。からだはだんだん軽くなっていく。心も。

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こんな人の多さにもかかわらず

ふしぎと透きとおる海

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カーテンがひらく

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クラゲ

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手をのばしてみたひとたち


かいちょ

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2020年8月12日 (水)

短歌シリーズ Ⅸ

からっぽの胸をかかえてジョイフルの駐輪場から漕ぎだす自転車

 

なけなしの花壇に植えたセンニチソウ 月の明かりで根付けよ根付け

 

ねむらないタマシイが満月のよる ねむるあたしを追いかけている

 

地球儀が埃をかむる年月のなかにいくつもしたわすれもの

 

まだ森をさがしているの?雨上がり 街の歩道にとぶアゲハ蝶

 

入道雲の午後にはたったひとりきり 苦手なはずの口笛をふく

 

あなたさえいればいいのにあなただけどこにもいなくてまた更ける夜


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休肝日を設けるとやってくる仕組み

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いいにおい!

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ひいたり満ちたり


かいちょ

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2020年8月 1日 (土)

みえないところでみつめあって

いちおうにんげんなのできのうはすこし落ちこむことがあり、つかれてもいたのだが

きょうはもうすこし、ちからを抜いてかまえてみようという気でいる。

ダメだったらまたやりなおせばいいのだ。

目のまえのことにとらわれるあまり、そんな簡単なことがみえなくなっていた。

立ちどまって目をあける。先なんてなくても、みえなくてもいい。信じることをわすれた私たちにいったいどんな未来が待っているというのだろう。

いまはとおくで暮らしているひとから手紙がとどいた。この瞬間にまったくちがうところでだれかがなにかをしているということ、いつかのネコがあくびしているということ、それはとてもたいせつなことなのだ。この社会には安心というものがたりないから、なんであれ(それが機械やSNSであったとしても)そのひとにとって心のふかいところでの安堵になりうるもの、つながりの感覚とその手ざわりになるものがたぶん必要なのだ。

きっとそれをみつけることじたい容易ではないのだろう。歯車が高速で回転すればするほど、そとにあるものははじかれつづけてしまうし、たくさんのものがあればあるほど、途方に暮れてしまうこともたしかだ。

だからまず、ふらふらながら私も、目のまえのひとたちと一緒に生きてみようとおもう。ちかくにいる目のまえのひと、とおくにいる目のまえのひと、目にはみえない目のまえのひと。目をあけてみれば、ちゃんとたくさん私にもいる。

みえないところで、お互いにみつめあって私たちは生きている。


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セミがとまった!子ネコもやってきた

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そしてまたなにかがこわくてふらついている私に

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それでもこれを書け!となにかが言ってくる

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ハチミツいろ



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2020年7月29日 (水)

小屋はもう建っている

ものすごいポーズで寝ている、おおきくなったいもうとをみて、ちょっとまえに旅先でみかけたふるい小屋のことをおもいだした。

ぽつりと無造作に佇む姿が、目にはみえないたくさんのものをうつしているみたいでやけに惹かれた。

旅に出られないせいか、気がつけばまえに旅したときにとおった道を、あたまのなかでたどっていることがある。その道ははじめ、じぶんよりもうしろにのびているのだけれど、目をとじてたどっていくうちに、いつのまにか、それがそのままじぶんの前にもひろがっていることに気づく。わたしが道をそのままとびこえたのか、道そのものが移動したのか。それとも、そもそも道など存在しなかったのか。

どこにも行けないことが、どこにも行けないほうへと向かうのではなくて

どこにも行けないということがそのまま、どこにでも行けるということになりうる場所

をみつけたい。

 

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この一か月ちょっとのあいだ、テレビで観る野球がほんとに救いだった。かいちょ

 

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2020年7月25日 (土)

短歌シリーズ8

七月を追いかけるのはやめにしてつぎの地平を、みにゆくのだよ


どうしても声がききたい午後三時 世界に耳をおしあててみる


あなたとすれちがったときにふいた風がわたしをどこまでもはこぶ


金色にそまった雲が泣きおえたあとのポストにとどく返信


わたしたいものをわすれてきてしまいなにもないのにわたしはあるく


一度きり出会ったそれは灯台でした ここに光が満ちる真夜中


わたしたち出会ったころとおなじゆめいまもどこかで描きつづけてる


それなのにラッパの音は鳴りやまぬ くりかえし世界を抱く和音


 

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2020年7月22日 (水)

いいとわるい

じぶんがうごいていると静止しているようにみえるものが、

立ちどまってみれば不思議と

ものすごいはやさで流れていく。

あっぷあっぷとなる。

つまりわたしは迷っていました。

ここで生きていくことをなんとなく決められずにいて

どこかに行けばなにかがあるとおもっていたのだけれど

そうではなかった

それがもう百年ぐらい

ずっとつづいている

じぶんがなにかDoすることに必死であせって

いまある状況とか幸せとかをみようとしてなかった

そこでわたしは

いいとわるいをかんがえて

それをかんがえてもうすこし

いまのじぶんときちんと向き合ってみようとおもいました

いいとわるい

それにかんしてはたぶんずっといつも

じぶんのなかにあったから

そともなかにあったから

そともなかもなかったから

わたしはわらってしまった

わらってころげて

どっかにいってしまった

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クルマから降りると、ちかごろまいにちレインボートカゲ?に遭遇する

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なんだか勇気をもらう

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2020年7月17日 (金)

そっと出発する

久しぶりに空が高くて、とても青かったので、そとに出た。ちかくに海があるので、行くところがない日はかならずそこに行く。きょうは、訪問者と連れだってすこし歩いた。ながかった雨の季節が明ける。なにかがおわることを目撃するのは、ただごとではないから、できるだけ目をこらしてみていたいとおもう。まばたきのあいだに、おわってしまうこともあるけど。

おわりをみようとするとき、そとにあったかなしみが、はいってくることがある。分厚かった壁がとれる場所をみつけて、そこからは行ったり来たり、上がったり下がったりできる。そのひとつの場所は、灯台みたいに光っている。凹んでいる。でっぱっている。

灯台をじぶんでみつけること。

 

 

諸君は僕を、「ほがらか」でないといふ。

しかし、そんな定規みたいな「ほがらか」なんぞはおやめなさい。

 

ほがらかとは、恐らくは、

悲しい時に悲しいだけ

悲しんでいられることでせう?

 

されば今晩かなしげに、かうして沈んでいる僕が、

輝き出でる時もある。

 

(『汚れっちまった悲しみに・・・』集英社文庫 「酒場にて」より抜粋)

 

 

中也の、未刊詩篇の、この詩が好きで、何度もなんども、繰りかえし、読んだことがあった。

Doではなく生きたいし。おりたいし。そのひとがもうどれだけとおくても、こっそり誓えるのは誓える。

言葉にはならないたたずまいで居たら、そしたら虫っころがからだのなかで膨大して、ちいさいことがいっきにふくらんできて、それはもう、ものすごいちからで。それで反転を繰りかえしながらさらにその先へと向かっていって、うたをうたう生きものになった。

見送りはなく、じぶんで日をえらんで出発する。そしてわすれないために。そのためにひとりでいる。

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夏が窓のそとで揺れている

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2020年7月14日 (火)

朝に豆をたべたよ

ひさしぶりにはじめっからブログを読みなおしてみた。けっしてマメとはいえない頻度で地味に更新してきたこれもちりつも理論で、どっさりとまではいかないが、両手にかかえるくらいの記事がならんでいる。読みかえすとやっぱりはずかしい。なんて青いんだ・・・!とおもうものや、じぶんでもわけのわからん文章ばかりで、とてもはずかしい。

でも、淡く前向きなブログになっているのではないかな。

むかしに書いたものを読んで、(よくもわるくも)なんだこれは!とおもえるのは、よいことなのではないだろうか。意に反して旅から戻らなければならないようなときにも、あるいてきた道が、ちゃんとつぎに行く勇気をくれるような気がする。やっぱり毎日、勇気が必要なのだ。

気がついたら、糸巻きをたぐりよせるみたいにして、みつからないはじまりをさがすみたいにして、じぶんの書いてきた記事を読んでいる私がいた。読みながら、なにか失うことを知りたい、その感触をずっしり受けとめてみたいとおもっている私がいた。

朝、いもうととふたりで豆をたべた。それぞれ、そんなにたくさんではない豆を小さな皿にとぱぱとうつして、ひとつずつつまんでたべた。ふたりとも集中してたべていたはずなのに、とつぜんいもうとのゆびさきから豆がひとつぶとびだした。それをみたいもうと、とっさに「わたしみたい」だって。アネは「たしかに」とおもってしまったよ。たしかに。でも、そのとびだした豆、よくみたらなんかかわいいね。

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ちいさな漁港におおきな船が停泊していて

ドッキリ

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そして砂浜にはばら

茎からちょん切られてかがやいている

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