2021.07.18

東南アジアに行きたい

東南アジアに行きたい。ある日とつぜんそんな思いが私を捉えるようになって、困惑した。それまで、そんなに遠くに行きたいと思ったことはなかったし、どちらかというと、快適な室内で、ひとりじっとしている方が私の性に合っていた。

それなのに、結局、私は何度もタイやカンボジアに足をはこんだ。

じぶんが思ったことは、そのまま道だ。地図にはない道だ。あの日の私は、夢を見るような素直さで、ためらわずにその道を歩いた。私が道そのものだった。道は、なにをするかということでは、できてゆかないのだった。

タイやカンボジアに着くと、たいてい、足を引きずりながら、ほとんど這うようにして古い寺や遺跡を見てまわった。濃い緑に薄黄色の光が差す境内を、野良犬ににらまれながら歩き、仏像のそばに向かった。

あのとき、まったく知らない土地でひとり、なじみのない巨大な仏像のそばにいたというそのことが、いまも、しるしのないオアシスのように、私をなぐさめることがある。そして私はいま、それらの場所から遠く離れて、日本で生活している。でも、どうしても、あのときのいくつもの旅が日常から遠く離れたものであるとは思えないのだ。

人生に、もしも縮図のようなものがあるとしたら、あの、じぶんの意思とは関係なしに何度も旅に出ては、浮浪者のように歩いた日々ではないか、と思うことがある。もちろん、こんな考えは私の夢の一部に過ぎないのかもしれない。でも、いま、私をどこに向かわせるでもなく駆り立てるものがあるとしたら、あの熱気にまみれた緑の遺跡と、黄金に光る巨大な仏像のそばにいたというそのことなのだ。

暑い日に、遠くの国で、想像もつかないほど大きなものをまえに立ちつくすじぶんが、いまもどこかにいるような気がする。

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2021.06.08

宇宙人の友だち

まだ5月が6月をおいかけてきているような気がする。梅雨なのに雨が降らない日がつづいている。ちょっとくらい雨がふってくれた方が、野菜たちにとっては都合が良いのに。

先週、友人からとつぜん大きめの封筒が届いて、なんだろうとおもったら、きんつばと、「口琴」という小さな楽器がはいっていた(手紙もはいっていた)。

わたしは、楽器というものとじぶんがうまくなじめないとずっと思ってきた。すごく音痴だし、たぶん息の吐き方とかも普段からちょっとおかしい。じぶんの身体を、じぶんの思うように動かせないという、何に対してなのか、そういう負い目みたいなものがあるということも関係しているかもしれない。

でも、音が鳴るものは好きで、むかしはよく草笛などにも挑戦した(が、少しでも音が鳴ったことはたぶん一回もないと思う。口笛もほとんど毎日吹いているのだが、いまだに十日にいっぺんぐらいしか音が出ない)。ギターも持っているし(これはじぶんと家族、親しい友人たちに聴かせたことがある)、小学生のころにはピアノもやっていた(これはとりわけひどく、高学年になってもバイエルを卒業できないうえに、発表会では極度の緊張のせいでほとんど弾くことができなかった)。

そんなわたしのところにかわいいかわいい口琴がやって来た。手づくりの説明書つきだ。説明書をじっくり読んで、そのとおりにやってみる。まったく音が出ない。唇をあてる部分がまちがっているみたいだ。もう一度やってみると、びよーん、と奇妙すぎる音が出た。まるで宇宙人がしゃべり出したみたいだ(これはじっさいに鳴らしてみると、わかっていただけると思う)。何度かやっているうちに、すこしずつ音のバリエーションがふえてきた。わたしはあたらしい言語を発明しかけていた。もうすこしで、宇宙人と友達になれるかもしれない。

音は相変わらずよくわからない未知の記号だが、それはわたしを自由にする。音が鳴ると、知らない道を見つけたときとおんなじ気持ちになる。そんなとき、わたしの中に自由が迷いこんでくる。一瞬、自由がわたしの中で迷っているのか、わたしが自由の中で迷っているのかわからなくなる。道は歩くためでも、迷うためでもなく、ただそこにあることがある。

さみしくなると鳴らしたくなる、友だちみたいな音を、口琴という楽器はもっている。

 

 

 

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口琴(友人が作成した説明書による):「振動弁をふるわせて その振動を 口の中、のど、お腹、鼻にひびかせて音を出す。わりと世界の色んな国に見られて、色んな形、素材があります」

わたしがもらったのはたぶん東南アジアのどこかの国に由来するものだろうか?

 

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楽器は渦巻きを逆回転にする。わたしはつい楽器に話しかけてしまう。わたしも楽器になりたいとぼんやりおもう。 

 

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おんなじ株から、毎年色のちがう花が咲く。

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憧れの黒字金つば

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藻をながめるといい気持ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.06.04

古い街に行きたい

どこか古い街に行きたい。

そこで、知らない道に出会いたい。

その道を拾って、持って帰りたい。

 

 

 

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うっかりうっとり

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光の街は部屋の中に(私はまだ、羽毛布団にくるまって寝ています)(羽毛布団とのしあわせも、ながくはつづかない)

 

 

 

 

 

 

 

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2021.05.27

はじめにやったようなやりかたで

きょう、帰る途中に、海に寄った。日もながくなってそこらじゅうぴかぴかしていたし、海に行ったらもっともっとぴかぴかが見られると思ったから。でも、いつものわたしの特等席にはあろうことかふたりのポリスがいて、わたしは海岸に立ち入ることはおろか、海を見ることさえもできなかったのだ。かなしかった。

そんな気分で部屋に帰ってきて、これを書こうと思い立った。これを書いていると、じぶん宛ての手紙を書いているような気分になるし、鉛筆でぐちゃぐちゃととりとめもない線を引いているような気分になる。それはとてもたのしいことだ。最悪の状況の中にも、たのしいことはあるものだ。わたしはじぶんに言いきかせた。

 

話は変わるけれど、わたしは、なにかを捨てるということが苦手だ。たぶんそれは、わたし自身のこわがりとかちょっとおかしなこだわりとかに関係しているのだとおもうのだけれど、それにしても、ちょっとびっくりするくらい捨てられない。いちどなにかを拾ってしまったら、魂ごとくっついてしまったと言わんばかりの執着をみせてしまう。当然、気がつく頃にはいろんなものが増えている。大量の本。紙。ペン。服。食器。

雨の季節になると、それが重たくてたまらなくなるのだ(じぶんのせいである)。

 

一度すべてを捨てて(あるいは捨てられるものを捨てて)、なんにもない砂漠から、大好きな荒野から、考えてみなければならない、はじめてみなければならないときが来ているのかもしれない。素人思考だとしても。なにかあるたびに、毎日、その荒野から歩き出す。いま、そうすることぐらいしかあらゆる方法が思いつかない。

でも、もしかしたら、じぶんの足で歩くとは、こういうことを言うのかもしれない、ともおもう。

このブログだって、ひとつのささやかな思いつきが、ぐちゃぐちゃに引いた線の中から浮かび上がるものが、ふいに水面に浮かんできらめく魚のうろこが、それを見るわたしの目があってはじまる。それがすべてのはじまりなのだ。一瞬のはじまり、次なる言葉のはじまり。その絶え間ない予感が、わたしを動かしているような気がする。

もういちどはじめたい。

はじめにやったようなやりかたで。

ごちゃごちゃしていて、ちょっと頭でっかちで、でも軽くて澄んだあのやりかたで。

 

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離れれば離れるほど近づくということがあるのだ

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ほんものはもっとビビッド。

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またお会いしましょう

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2021.04.02

ふたつの窓

 

わたしの部屋には窓がふたつある。

 

窓がふたつあるということは、そこに道ができるということだ。

風は一年中つよいし、日はよくあたる。

 

昨日、夕方そのふたつの窓を思いきって開け放つと、近所にやって来ているやきとり屋さんのクルマからだろう、ものすごくよい匂いが部屋の中にはいってきた。その瞬間、なんだかすべてがとてもすばらしく思えてしまったのだ。

ここにいつでも通り道があるというのは、なんというすばらしいことだろう。

 

その目には見えない道は、ときに滑走路に変貌してわたしの考えを窓のそとへ飛び立たせたり、ときに砂漠の一部分になってわたしを途方に暮れさせたりする。

でも、道はかならずどこかにつながっている。そのことだけはわかる。

だってこんなにいい匂いのする風が吹いているんだもん。

 

じっさいの道が、心の中の地図にある道とかさなるのが4月。

花もたくさん咲いている。

 

  

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てつこさん……

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私の部屋。やどかりの殻みたいだよ

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泉から水がわき出した瞬間。

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白いラマ。吸いたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.03.19

不在の3月

桜が開花し、ちょっぴり行き詰ってしまったので、ひさしぶりにブログを書いてみることにした。

・・・ってのはたぶん言いわけで、ずいぶん放ってしまってごめんなさい。

ブログに書くことって、すごくむずかしいと思う。何かそれだけで人におもしろがってもらえるような話は特に持っていない。日々なにかが起こっているとも言えるし、なにも起こっていないとも言える。なにを書くか、考えだすとたぶん一生まとまらない。こういう短文を書くということについても、まだよくわかっていないし。

だから、ちょうどいい塩梅になんてならなくてもいいから、ここを少なくとも私にとっての本物であるようにしつづけたいと思う。というか、それぐらいしか、できることがない。

 

去年までは、この季節(ちょうど桜が咲きはじめてから散るぐらいまで)、どこかに行っていることが多かった。じぶんの部屋を不在にして、鈍行にただふらっと乗っているとか、予定も立てずに海外に行っているとか。そのせいもあるのか、この時期に部屋でじっとしていることが少し、いや、かなり耐えがたい。つらいものがある(旅をしているとき、私はいつも幸せだ。どんなに貧乏な旅でも、行き先すら決まっていなくても、旅に出ているというだけで幸せだ。不思議ときっぱり、そう言うことができる)。

たぶん、そこに在ることとおなじ大きさの不在を持ち込むことで、無意識のうちにバランスをとっていたのだろう。

 

いま、ときどき、居留守をつかうようになった。そこにいるのに、いません、と言う(特にたずねてくるひとがいなくても、だ)。部屋の外へ出るときは出るし、出ないときは出ない。その両方の等しい重さをたしかめるみたいに。

 

ないものの中に、あるときふと、「そこに在る」ということが、立ちあらわれてくる。

この瞬間も、やってきた始発にとび乗って、行けるところまで、と列車に揺られている私がいる。ここにいるのに、ここにいない。ここにいながら、いつでもどこかへ行って、どこかへ帰ってくることができる。

 

書いていたら、ちょっとだけ姿勢がしゃんとなった(私は姿勢がわるすぎる!)。

 

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よつばちゃんが、18年まえに5さいってことは、、、!?

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11月からめっきめきだった映画羅小黒戦記の公開がついに終わる。ありがとうございました。すごいものをみた。

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日本の好きなお話は、三年寝太郎です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.01.09

日がさす頃に

こんな海風のつよい街にも雪がつもっているので、部屋から出ることができない。散歩に行きたいが、雪と寒さに慣れていないことを言いわけに、いまだ動けずにいる。

というわけで、大人しく膝を折りたたんで読書。年末年始、少々調子にのってたっぷりと買いこんだ本がある。漫画も。読むことはもちろんなのだけれど、まだ読んでいない本が部屋の中にあるということも、なんだかとても心を満たしてくれるから、つい買いこんでしまう(そして「積ん読」はさらに高く積み上がってゆく)。

 

本は、そとから眺めるのと、ページをひらくのでは、ぜんぜんちがう。あたりまえのことといえばあたりまえのことなのだが、あらすじを読んだり手に取ったりするだけで、ついわかったような気になってしまうことがある。でも、そうじゃない。私は、小さなものが大きなものになる瞬間をさがしていたのだ。なにかに媚びたり、なにかを抑制したりすることではなく、なにか別の方法で、個人として行動していく手がかり。じぶんのあたまで考えるための言葉。

一冊の文庫本でも、手に取ったときのコンパクトさとはうらはらに、ページの中はずっしりと重たい。その重たさを愛している。だから、思ったよりずっと時間がかかったとしても、一ページずつページをめくっていく。だってたぶん私は、読みたいのではなく、生きたいのだと思うから。

 

こういう、本のページをめくるような、小さなことを、ものを、ひとつひとつ積みかさねていく。それは、大きなものに抵抗するということになり得ないだろうか?おなじように、目にみえるものを愛することは、目にはみえないすべてのものを愛するということになり得ないだろうか?たったひとつの言葉やしぐさは、そういう意味でとても重要になってくる。すべての完結しないものに対して、ひとりの力というのは底知れない。

だから、そういうこまやかさをあつめかさねて、もっと大胆になりたい。もっともっと大胆なフォームで、走ってみたい。風と光をもっと浴びたい。

 

薄くつもった雪に日がさしてまぶしい。雪が溶けてまた道がみえたら、マフラーを巻いてそとへ出てみようと思っている。

  

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サバ詩集。須賀敦子訳

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アンネの日記。読みなおしている

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本棚に生えてる。コミック棚がお気に入り

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北欧におもいをはせて。

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2020.12.22

追記

前回のブログのタイトルを「おおきな地平」にしたのは、

その朝にちょうどそういう地平が顔をみせているような気がしたからです。

coronaが流行りだしてから、それまで以上に「時代」というものが浮きあがってみえてきて

なんだかドキドキしてしまいます(キメツの影響もあるのかな。)。

どんな時代においても、おおきく見渡し

まざまざと一歩を感じられる広さ。そういう地平、朝日はたぶん

わたしたちの心のなかにもうすでにあるのだと思う。

だってその朝は、これまでとこれからのあらゆるすべての朝を含んで

かがやいていた。その瞬間、この「時代」に生きていることが

すこしうれしかった。

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パクチーの花。

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2020.12.10

おおきな地平

とてもとても、ご無沙汰してしまった。みなさまお元気だろうか?風邪引いてないですか?

私はというとここ数日パッタパッタして…いったい何にパタついていたのだろう。年末というバケモノに化かされていたのだろうか?

 

 

 

 

 

さいきん、よくバスに乗る。

バスはもともと得意ではない。小学生の頃、祖父母の家の近くのバス停まで行こうとして、バスを乗り違えたことがあるから。

バスは私の知らない道をすすみ、知らない街中にたどり着いた。その時のこころぼそさが忘れられずに、

それ以来私はバスを避けるようになった。

 

この歳になってようやく不安なくバスに乗ることができるようになり、たいせつなことを思い出した。

 

そのとき、終点の見知らぬバス停に着いて泣いていたわたしを助けてくれたのは、

そのバスの運転手さんだった。

わけもわからず泣きじゃくる私に千円札を何枚か握らせて、タクシーに乗せてくれた。

 

どうしてこんなたいせつなことを忘れていたのだろう。

バスに乗る恐怖に気をとられ、息つく暇もなかったからだろうか。

…ではなぜ、いまになって思い出すことができたのだろう。

 

そのとき、どうやって帰ったのか、祖父母の家までたどり着いたのか、ほとんどの記憶は煙に巻かれたように消え去っている。

でも、あの運転手さんは、私の空想の産物などではない。

じぶんにとってたしかなことは、消えない。

あんなに深い安堵を、いまも私は知らない。

 

見知らぬ場所、帰り道もわからないようなとおい場所(いまかんがえればそんなにとおい場所でもないのだが。でも当時の私は一生家には帰れないとおもった)が、

そのひとの存在によってただの「とおい」場所ではなくなった。「とおく」は「ちかく」になった。

 

いまでもまだ、バスに乗ると不思議な感じがする。

窓の外に、小学生の私がまだ歩いているような。

 

窓にうつっている景色に、ふれることはできない。

指を伸ばしても、それが外にあるものなのか内にあるものなのか

結局知ることができずに私はバスを降りる。

そして、そこはいつもの場所なのだ。見慣れたバス停なのだ。

 

わからない。でも。その過程をたどるとき、たしかに私は深い安堵をおぼえている。

不安な思い出、思い出したくない苦い記憶のはずなのに不思議だ。

 

12月を歩く。色を足しながら歩く。そこに、いつかの私の影がかさなる。

影がのびる。のびて次の場所に届く。そこはとてもおおきな地平だ。

 

 

どうしてなのか書くつもりだったこととまったくちがうことを書いてしまった。またすぐに更新します。風邪引かないようにね!かいちょ

 

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色を足し足し。

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心の風邪に ハイパーボール

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冬。まるいものがやたらたべたい。

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やさしい。かわいい。つよい。

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2020.11.03

刃をもつということ

おくればせながら一か月ほど前、鬼滅の刃を読破した。(以下、ストーリーバレはないが設定バレのようなものがあるかもしれない。話がとつぜんはじまる)

 

鬼殺隊の隊士は刃を捨てない。

じぶんたちが脆くよわい人間であることをわかっていながら、それでいてじぶんを捨てない。人ならざる鬼とたたかう。

刃を持ちつつ自暴自棄にならない。これがどれほどむずかしいことか。ああ愛すべき鬼殺隊(愛をおもいださせてくれるキメツ!)。読んでいて何度も心がふるえる瞬間があった(それからアニメを観て、映画を観て、グッズを買いあさった。キメツこわい…)。

 

環境を満たそうとするのではない。満たされるのは、満たすことができるのはいつもじぶんだけであり

その内側の世界と外側の世界が釣り合ったときにはじめてひらかれるものがある。じぶんの刃を持つことができる。

そのことを彼らは知っている。気づいている。そして刃を持つことをおそれない。

おそれないひとはいとおしい。勇気がないとできない。

そして勇気は、ほんとはだれもが持っているものなのだと思う。

 

隣人に微笑みかけることだって勇気なのだ。

迷いながらも決断や判断をおそれず重ねてゆくことが、いまの私にはできているだろうか。

 

鬼殺隊員や柱のように、身ひとつ剣ひとつで誰かの命をすくうことなどできない。ブラックジャックにもアンパンマンにもなれない。

それでも私は私の刃をもって、日々戦士でありつづけたいと思うのだった。

 

ちなみにここに書いたのは内容の考察などではなく、昨夜私が個人的に感じたことそれだけである(時差がすごいですが)。いつもぼんやりとみえる手がかりのようなものを、切り捨てずに信じてみたい。 

 

 

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サイコ・シノブ(笑顔がこわい…)

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果てに日が沈むとき、世界に夜がくる

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畑から地球を一望できる

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