2020年7月 5日 (日)

その一曲があれば

5月からうごいていないカレンダーをきょうの日付までいっきにめくると、みなれない海が目にとびこんできた。

どうしようもない昼間に さわがしい心に その曲があれば という一曲がある。とつぜん壁にぶちあたったとき、ヘッドホンをつけてその一曲を聴く。

だけど事情があって、ヘッドホンをつけられないときがくるかもしれない。だからその一曲を口ずさむ練習をしておく。いつだって人前でうたうことには勇気がいるけれど、それがしぜんに口ずさまれるものだとしたら、ぜんぜんためらうことはない。そんな気がしている。それがそのまま道しるべになっていく。

口ずさむまでのほうが、むしろむずかしいことに気づく。何であれ、うごくためには、うすっぺらなかなしみでは役に立たないのだから、もっともっとかなしんでいいのだとおもう。そこからうまれるうたを、聴いて、うたえばいい。

じっさい、ときどきおもいだしたように何かうたってみると、花が咲くみたいに気持ちが晴れて、ずっと先のほうまでひらいてくるから不思議。何度も繰りかえしうたえる、聴ける幸せ。そしてその一曲があるという心づよさ。


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すぐにシンパシーを感じるからね!

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恐竜のため息

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カレーもつくっているよ

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2020年6月29日 (月)

短歌シリーズ⑦

見送ったあともアクセル踏めぬまま いつまでもラジオ聴きつづけてる


手のひらをうらがえすように喜劇と悲劇がとなりあわせの十五時


昼のウサギは行くあてのないままで 汗は道路にちりばめられて


大粒のフロントガラス打つ雨に溶ける街 まだ 頬杖の朝


きらめいた街は置き去り きみとまた 砂漠をこえて その向こうへゆく


成人のおとうとの寝がえりの音をきくあたしは真夜中の島


しろく淀む雨の隙間をすりぬける風にのって隣へ行きたい


ひた枯れたあじさいえらんで歩きだす ゆびさきから海、睫毛には雪

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2020年6月14日 (日)

どしゃ降り


雨の日曜日はどしゃ降りになるまえに畑にハーブを植えに行った。ハーブはよく茂るので、希望めいたものをかかえて行った。畑に立派な野菜ではない、しょぼしょぼとした草やハーブがあるのをみると安心する。

ぼーっとハーブのにおいを吸っていると、なんとなくユーモアが欲しくなった。いますぐ、欲しくなった。だけどユーモアはひとりでにあらわれない。影のようにそおっとしのびよってくる。おおきすぎもちいさすぎもせず、高すぎも低すぎもせず、ちょうど真実が漏れぬくらいのおおきさでありたい。


まだわたしには、かなしいくらいいろんなものが足りなくて(それはずっと満ち足りることのないものなのだろうけど)、じぶんの文体なんかを確立するにはあまりにも青々しい。だけど、どんな時でも、時代が変わっても、これは!とおもうものをちゃんとみつけて、なにがあってもそれをやりたいし、ささえたいとおもう。鉄のものさしなんざボキボキ折ってやりたいのだがまずは、じぶんの生活をしんじていきたい。


いま目のまえにあることにさわって、あたらしい入り口をみつけて、そのなかに、そとに、あるものをみる。そこにちゃんとなにかがあるとしんじたい。


それはたぶん、わたしたちがみたこともないものだ。言葉をつきやぶって、かたちを抜けだして、ゆるやかに波に浮かぶみたいに、わたしはそれをたのしみにしている。


そうやってしんじることが、たのしむということでもあるのだろう。


たのしみには、いろんなかたちがある。厭きることのないなにかを、それぞれがつづけていけたらいいとねがう。


それにしても一歩踏みだすことがこんなにむずかしいことだとは。じぶんで決めた一歩は、いつでも重い。その重みとたたかいながら、花でも植えながら、はーあ。光をすくったり風にばらまいたり毎日できたら。そうやってたくさんみっけていけたら。ね


庭のヤマボウシの花はぜんぶ落ち、それでも懲りずにまたなにか植えたりしています。ほんとつかれる・・・。でもやめられないのです


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作り雨にはブーゲンビリア

未来が微笑む








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2020年6月 8日 (月)

逃避行

ここのところ毎日、いもうとと逃避行に出る。

川がどうしてもみたいとか、野菜の苗を買いたいとかふたりであれこれ言って、家をでる。そうするとしばらく帰れない。帰りたくても帰れないのだ。帰るのにはじかんがかかる。

どこかへ行くことよりも、帰ることのほうがいつでもむずかしい。

そういえばきょう、用事があって銀行に行った。さいきんはほとんど毎日、銀行に行っているのだが、じぶんでもびっくりするくらいわからないことだらけだ。印鑑の押しかた、つぎつぎにくりだされる用語(それは勉強すればいいだけの話だけれど)!

それで担当の銀行員さんもそろそろちょっとあきれ気味、失笑気味で、わたしはきょうなんとなくじぶんの無知を恥じた。はい、わかりません、ということがなんだかスムーズにできないような気がした。どうしてだろうとかんがえた。

あたまをひねったまま逃避行していると、ふとかんがえがわいてきた。わからないことをわからないというのはあらゆるにんげん関係の基本ではなかったか。小手先の作法をあれこれまなぶより、ひとりとの接しかたをかんがえたい。それは、あらゆるものとどうかかわるかということでもあるのだから。

よくみてみればわかるはなしだ。それでもすぐにわすれてしまう。問いを秘めたままの逃避行は、案外いいものなのかもしれない。


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この星屑みたいなあじさいの名前知りたい

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ズッキーニの花にはじめて会った!野菜の花かわいいです

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できそこないといわれても。好き!


かいちょ


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2020年6月 6日 (土)

とけこむ、浮きあがる

わたしはぼうぜんとすわっていた。うそみたいに雲のない日だった。庭の植物が日差しにちいさな輪をつくってきらめいていた。じかんがとてもはやく過ぎていくようにおもわれた。おかしい、いつだってじかんはわたし自身であったはずなのに。どこからかやってきては流れてゆくじかんに翻弄されるじぶんが情けなくて、泣きそうな昼すぎだった。

それまでみえていたものが、きこえていたものが、初夏のおわりとともに、なんだかきゅうにわたしから去っていってしまったような気がした。高すぎる空が梅雨をはこんでくる。

おもいたって家のそとに出ると、これまでとじこもっていたじぶんが、外の空気にふれるだけで社会のまっとうな一員になれるような、憂いをふくんだ希望のようなものが全身をさらに窮屈にした。わたしは座礁した難破船みたいに片隅でうごけずにいた。

ふと顔をあげたとき、吹いてきた風が胸になじんだ。風は、わたしがまるでそこにいないかのように吹きぬけた。心臓、そのほか臓器、髪の毛の細胞ひとつひとつ。眼球の内側。あらゆる内側に風が吹いた。その瞬間、わたしは風景にとけこんだのだ。簡潔に、いさぎよく、わかりやすく。同時にわたしは、じぶんがあらゆる場面から抜けだしてひとりになるのを感じた。

つまり、とけこむことは、浮きあがるということでもあるのだ。あらゆる場所から浮きあがったわたしはもう、泣いていなかった。また5秒後には泣きだすかもしれなかったが、そのとき、わたしの涙はとまっていた。涙を出すなんちゃらという器官にも風が吹いたのだろう。

にまーと、虫にわらいかける。そうすると、たくさんの目がじぶんのなかにインストールされてゆくのがわかった。トマトの目、サルビアの目、岩の目。岩は、なんとこの家の守り神だったのだ。祈りの連鎖。ポキポキと折れてはかってにつながってゆくことのおそろしさから解放されて、またすこしたのしく、生きていけそうな気がした。うそくさいけれど、素直な発見がいちばんわたしじしんをよろこばせるのだからしかたがない。そのよろこびが、まぎれもなくわたしを生かすのだ。あらゆる感覚とむすびついて。

その一瞬の反転が、そのとき吹いた風が、いまもすこし、わたしのなかのどこかにのこっている。そういうわけで、ブログを書こうとおもう。書くだけではなく、おそいテンポながらもやっている(やろうとしている)ことなどについても書いていこうとひそかにおもっている。

いまはみなさまととてもとおいような気がする。だけど、とおさはいつでもどこかにひそんでいたのだ。どんなときにも起こりうる。わたしには、どうすることもできない。そのとおさをとおいまま、たのしむことができたらいいな。かいちょ

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さんきょうだい

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2020年5月24日 (日)

マンモスに湯をかける

弟が出ていく日だ。なんだかこの世情のおかげで弟とすこしはゆっくり過ごせたような気がする。

親もとをはなれるということはただ事ではない。ウチでもきのうから皆どこかソワソワふわふわしている。おかげで空気がいつもより繊細で澄んでいる。ひとりひとりの声がよくひびく。こういうことがすこしずつでもみえてくるのはうれしい。ひとつのしぐさとか言葉のダンスに気づくことができるのはうれしい。じょうろで植物に水をやることが、なにかとてもおおきなもの、目にはみえないものに水をやることでもあると気づくのはたのしい。

氷のしたに沈んでいったマンモスたちにお湯をかけてやる。そしてわたしはじぶんの心にも水をかけてやる。そうやってすべてのものごとがひとつのしぐさに凝縮されてゆく。透きとおった矢になって時間をつらぬいてゆく。

そこからうまれる会話は、じぶんを、お互いを、時代から、あらゆる権威や抑圧から解き放つ。そしてはじめてわたしはそこに立つことができる。わたしの日常がはじまる。どしゃ降りのなか、散歩に行くといって静かに家を出て行った弟の背中がぼやけてゆく。謎から謎へ、つぎの扉がひらかれる。

だけどやっぱりさみしいーーーー。その背中がとおくに行ってしまうのは。ひとたびはなれてしまうということも、やはりただ事ではないのだ。だからわたしは、マンモスにお湯をかける。矢がどこまでもつづいていくように。ね。


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このまえ海で、ぼうふ を採ったよ。しゃきしゃき

かいちょ

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2020年5月19日 (火)

車窓はだれのもの

むかし、祖父が『世界の車窓から』というみじかい番組を好きだった。わたしたち孫は、それがはじまるといつも祖父に、おじいちゃん、なんでこんなの観たいの、チャンネルを変えて、とせがんでいた。そんなこともわすれてわたしは最近、列車の番組をよく観る。さっきも、インカの砂漠を縫うようにきらきらとはしる列車をみながら、うとうとしてしまった。

列車がうごきだす瞬間には、いつもどきっとさせられる。わたしのなかに無数のなにかが立ちあがる。混沌とした車内をかかえながら、オレンジ色の鮮やかな列車がかわいた街をつき抜けてゆく。わたしが列車にとりつかれるようになったのはたぶん、それが生みだす深い雑音と、沈黙を切り裂いてゆくそのやわらかさに魅せられたからであるのだろう。ひとりでどこへでも行ける、行ってやろう、といつしかおもうようになったのも、列車がたどってきた軌道のせいなのかもしれない。

車窓からみた景色は、だれのものだったのだろう、とときどきおもうことがある。たしかなものはひとつとしてなく、そこにはただおおきな景色とちいさな光景が反転をくりかえしながらあるだけだ。息をのむほどおおきなもののなかにある、それなのに、それよりももっとたしかにわたしの胸をつくもの。車窓はそれを垣間みせてくれる。

そういえば、わたしがはじめてほんとうの列車にのったとき(たしかあれは、大学3年の夏)、じぶんと反対の方向に列車がすすんでいるような気がした。どちらが始点で、どちらが終点なのか、はじめからおわりまで、見失いつづけた記憶がある。列車の頭上に浮かぶ満月がほんとうに心をしずめてくれたことも。

わたしたちを叱ることのけっしてなかった祖父は、その車窓からなにをみようとしていたのか。それとも、じぶんもその外側へ、と願ったのだろうか。インカの街をあるくとおい日の親子(この番組じたいがそうとうむかしのものだ、再放送)をねぼけたあたまで眺めながらわたしは、やはりまたいつか、じぶんでえらんだ列車にとびのりたいと淡くおもっている。


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バンコク-チェンマイの車窓から。色彩だけではない鮮やかさがちゃんとある。

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車内はむし暑い。手前のしかくい箱はお弁当。食堂車両でマッチョのおにいさんたちから買う。


かいちょ

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2020年5月15日 (金)

タネをまく

ごぶさたしております。

ここ数日、タネからそだてたハーブの世話をし、サルビアやらスズラン、マリーゴールド、ブーゲンビリアの水やりをし、あじさいと話し、畑の苗をそだて、わたしから花が咲きそう。咲くはず。そういえば、あのサボテンはまだ、花をつけつづけています。すごい。えらい。

わたしがやっているのはそんなにおおきなことではないけれど、じっさいにやってみると、おもっていたよりできることもあるし、できないこともある。うしなわれてゆくもののことをかんがえるとものすごい恐怖につつまれるけれど、雨とか苗をみているとすこし安心する。いま、ここにいることがちゃんとたいせつなのだとわかるから。

わたしたちはおもうようにタネをまくことができる。ひとつの袋にはたくさんのタネがはいりすぎているけれど、それをすこしずつ分ければ、じぶんだけの庭ができる。じっさい、できた。ちいさいプランターだけど。

わたしたちが立つところこそが土壌なのだ。じぶんで、まくタネを決める。一刻一刻、決めてゆく。水さえやれば、おもったよりもタネはかんたんに芽をだす。その芽がわたしたちにあたえるのは、目。みることで、それはまたおおきくなるのだ。

なによりもたのしい。とにかくたのしい。葉っぱを透明に変え、水たまりを宇宙に変えるカギは、たぶんここにある。まだだれのものでもない。

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雨に降る花はしろい

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土に立つものたち

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フワフワ

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ビリーザキッドに雨が降る

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2020年4月29日 (水)

迷うこと

わたしはあまりに迷うので、ときどき迷っていることさえわすれる。迷うことに慣れたくないし、迷うときはいつも驚いていたい。迷うじぶんにコンプレックスはもちろんあるが、もうそんなこと言ってられないぐらい。とにかくまわりがびっくりするぐらい迷う。とっくにおわったとおもってもまだ迷っている。しんじられないほどの時間をかけて。だから必然的に、わたしの時計はいつもちょっと狂ってるらしい。

わたしには迷うことの秘義なんてわからない。わかりたくもない。だっていまも迷ってるから。だけど、迷うことの先に、ではなくて、迷うことそのものの中に、ときどきたしかな光を放つものをみつける。それはわたしの意思とは関係なく、思い出したようにそこにあるのだから不思議だ。空から隕石みたいに降ってくることもある。背筋が凍る。そもそも、じぶんの迷いが、なにかふたつのもののあいだで揺れ動いているとは思わない。切り裂かれることはない。わたしの迷いは、迷いのままここにこうしてある。迷いは旅をする。だれにもハンドルをにぎられない猛スピードのボロ車のように。粉々に砕けたビール瓶のように。わたしはそれを捨てないままで、凹んだボンネットを、割れたガラスの破片をかかえてまた迷うのだ。

迷うことに導かれるごとく、魅せられるごとく迷い、ためらい、えい!と踏み出してみたりする。後戻りすることもある。やっぱりわたしは迷うことが好きなのだ。

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さいきんは畑仕事をよくします。苗を植える季節だからです。ちっこくてもふもふの生きものたちは心をなぐさめてくれます。レモンの木はなかなか大きくなりません。わたしは毎日、畑に魔法をかけます。巨大イモを掘るのが夢です。

かいちょ

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2020年4月22日 (水)

短歌シリーズ⑥

文庫本二冊で旅に出ることの代償がまだみつからぬまま


徐々にそのおもさを愛すようになる とおくの森の夜明けのように


ためらわず鳥のちかくへ行くひとにきっぷをみせてもらうという夢


あやうさとはてしのなさが背あたりでうずまいている円形の朝


窓のなかにいることにも慣れていて うごいていることだけがたよりで


背伸びしてつり革にぎる横顔はだれかに似ている、とても似ている


その瞬間あたしの胸に吹く風はきっとすべてをひまわりにする


めぐりあう瞬間まであとどれぐらい、あとどれぐらい列車はすすむの


地図はない ピンクのタンクトップひとつ 戦旗のようにひるがえすなど


寄り道をできないさみしくてただしいひとのつよさをうけとめる十五時


夜の旅にすべてをあずけてもいい。かたいリュックサックの持ち手


なにもかもたしかめにゆくための逃避行 ここにいるあたし、逃避行ちゅう


にじゅっさい すすんでゆくのがこわくって泣きだすようなこどもではない。


じぶんこそ風ではないかと思い知る 夜があまりにあたらしすぎる


まようことを愛するようにひらいてはしまる列車のドアを愛する


列車は水たまりにおぼれてTシャツの袖はやぶれてなにもかもとおい


知ることのない夏をあつめてはわすれてほんとは、泣いてたのかも


新月の星降るイヤフォンまだだれも気づいていない背中のバッジ


追記***連作(つながりがあるもの)としてつくってみました。日本には青春18きっぷというすばらしいきっぷがあって、いくつになってもつかえるというのです。鈍行列車の夢へようこそ。

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